よせばやし子の 1 日

昨年10月に開催された同窓会総会。今回の講演者は寄席囃子の恩田えりさんです。講演「よせばやし子の 1 日」の模様をお伝えします。このお仕事の舞台裏など、普段なかなか目にする機会のない貴重なお話しです。是非、お読み下さい。

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聞こえますかー?
まずは一曲お聞きください。

演奏

どうもありがとうございます。

拍手

こんにちはー

こんにちはー

42期の恩田えりと申します。芸名の方は名前のところがひらがなになっておりますけれど、本名も同じえりです。漢字なだけです。ここにですね、58期の阿部さんが用意してくれました。(スクリーンを見て)この古い建物が載っておりますけれども、こちらはですね新宿の末広亭という寄席なんですね。寄席に行かれた事ある方はおられますか?

何人か挙手

あ!結構!すごい!偉い偉い!素晴らしいですね。こんなに確率が高いとは思っておりませんでした。

最初に同窓会の方からお電話いただいたときにですね、「落語家さんなんですよね?」て言われて、「違います。」ていう風に答えました。私はですね、表に出る人間ではございません。高座、舞台ですね、舞台の袖で、舞台が一番よく見えるところでですね、皆さんからは見えないところなんですが、舞台袖で三味線を弾く仕事をしてるんですね。寄席囃子と言います。通称お囃子(はやし)さんとか下座(げざ)さんとか言うんですけれども。都内5か所のですね、寄席。この新宿末広亭とですね、それから上野鈴本演芸場。皆さんご存じなんでしょう?きっとね。

(・・・)

あれ?

(笑)

ね、五つのうち二つ行かれてます?

あと浅草ね。それから池袋。それから半蔵門。半蔵門はちょっとけったいな感じで繁華街にないんですね。隣が最高裁判所っていうすごい不釣り合いな所にあるんですけれども。
私は、その不釣り合いな半蔵門の国立演芸場という所の中にあります、「国立劇場 伝統芸能伝承者育成機関」というところでですね、二年間勉強いたしまして今の職業についているというわけですね。

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先に、寄席囃子の説明をちょっとさせていただきたいと思います。
寄席囃子というのはですね、先ほども申し上げましたが、寄席の音楽なんですね。
具体的に申し上げますと、高座、舞台にですね、噺家さんですとか他の芸人さんが上がる時のテーマ曲を弾くのが一つの役目なんですね。それを「出囃子」と言います。ですから猪木だったら猪木ボンバイエとかですね。一人一人違うんですね。それを弾き分ける仕事がまず一つ。
それから、手品ですとか紙切りですとかそういう見せる芸をする時のBGMも私たちが担当するわけですね。これを「地囃子」と言います。
それから、「はめもの」と言いまして、落語の中にですね、効果音で音楽を入れる時があるんですね。状況説明の為に川を表現した音楽とか、雪を表現した音楽とか色々あるんですけれども、そう言う「はめもの」という作業もありまして。
もう一つが踊りです。「ちょっと躍らせていただきます。」って芸人さんが踊る踊りを私達が弾き唄いするんですね。
そういう仕事をしております。

なんでそもそもですね、そういう仕事に就こうと思ったかというと・・・
すいません私何時までこれやっていいんですかね。これ押してますよね・・・

ご自由に

ご自由に。あ、じゃあご自由にということで、三時間ばかりね。

(笑)

嘘ですよ。私この後仕事がありますので、さっさか終わらせて帰らしていただこうと思っているんですけれども。

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そもそもですね。なんでこの仕事に就こうと思ったかと言いますとですね。私あの、さかのぼること20年くらい前ですかね・・・ちょっと思い出せませんね。21の夏にですね、スペインに短期留学に行ったんですね。それは語学留学で行ったんですけれど、それまですごい西洋かぶれしておりまして、「もうこれからはグローバルだ。」とか思ってですね、もう考えが浅はかですね。もうなんか海外に行かなきゃならんと勝手に思っていたわけです。でまあ、姉が二人いるんですけれど、姉二人もそこそこ頭がよくてですね、英語が堪能だったりするわけです。私は英語が得意じゃなかったんで父親が助け船をだしてくれまして、「お前はスペイン語の方があってんじゃないか?」とか言ってたきつけられたんですね。そうか、と思って大学入って、「じゃあ第二外国語はスペイン語だ。」と思ってたら、うちの大学にはなかったんです、それが。「あ、こりゃ困ったな。」とか思って。

上智大学に社会人講座があったので、そこに半年間通いまして。そのあとですね、なんで半年で行こうって思うのかがもうだめですね。もうちょっと勉強してから行けばよかったんですけど、半年でもう行こうって思って、姉にお金を借りまして、単身スペインにですね、三週間いったんですね。で、なんとなく一抹の不安があったので、私、草加せんべいを一袋持って行ったんですね。なんかこう、食が合わなかったら困るなと思って草加せんべいを持っていったんです。

案の定、全然食事が合わなくて三日で帰りたくなったんです。「もう帰りたい、帰りたい」って、草加せんべいはなくなっちゃうし。すぐ。「困ったなあ、困ったなあ。」って思って。もう朝昼晩ずっとオリーブオイル漬けの食事なんです。ホームステイですから家庭料理なんですね。あれ食べたいこれ食べたいとか言えないわけなんです。で出されたものを我慢我慢って言ったら失礼なんですけどね、食べるわけです。でももう耐えられなくて「早く帰りたい、早く帰りたい。」て思って。

それと同時にですね、スペインの留学先のホストファミリーが三兄弟だったんですけど、姉ちゃんと兄ちゃんと妹。で、このお兄ちゃんがものすごい日本に詳しい人だったんです。「君はどこから来たんだい?」「日本です」「日本は分かるけど」「横浜」「あ、横浜ってさ、800万人なんでしょ?」ていって、数字まで知ってるんですよ。人口をね。そんなん知りませんよ。住んでましたけれど。私、二十歳で中野から横浜に移り住みましたので、一応横浜市民と言ってましたけれども、まあ、にわかですよ。中野区の方がもちろん詳しいわけです。で、横浜のこと聞かれても全然わからないですし。で、日本の文化についても色々聞かれるんですけど、もう、おおげさじゃなく一つも答えられませんでした。で、「グローバルってアイデンティティーなんだ」って、その時に、もう21年生きてて、やっとそこで気がつくわけですよ。

こりゃいかんと思って日本に帰ってきまして。で、日本に帰って来る時の機内食で茶そばが出たんです。で、機内食ですからおいしいわけないんですよ。そんなもんは。でも、「うまい!うまい!」って、涙しながらその茶そばを食べて帰ってきたわけです。で、「これは日本文化を知らなければならない。」と思ってですね、歌舞伎に行ったり、能に行ったり、狂言行ったり、色々行きました。
でも自分の性格に一番合っていたのが寄席だったんですね。「あ、ここ落ち着くな。」って思って。朝の11時から夜の9時まで、2500円でずっといられる訳ですよ。ご飯食べてお腹いっぱいになってくーって寝て、わーって笑ってたら起きて「あー、面白いなー」って思ってまた寝て、みたいな。それを10時間以上2500円でしていられる空間いいなって思ってチョイチョイ通ってたんですね。

で、それと並行して一応大学にも行っておりまして。まあ行ってたって言ってもですね、入ったらそれっきりですね。もう、学問はしておりませんでした、はっきり言いまして。何をしていたかと言いますとですね、(資料を指して)そこの趣味にも書いてありますけれど、私、草野球が趣味でございまして、ここに在学中もですね、ソフトボール同好会というものに入ってですね、だらだら部活をやっておりました。一応、志は報道の記者になるという、今とは真逆ですね。っていう夢があったんですけれど、それに対しての勉強は何もせずにですね、白球を追いかけていたわけです。

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そのあと、大学を卒業いたしまして就職するわけです。
一応、志はマスメディアだったので、ポロポロポロポロ受けたんですけれど、まあこんな感じですからどこも受け入れてくれるわけがなく、50社目でやっと小さい会社に入れていただけたわけですね。で、そこで7年間務めまして、でも、ずっといる所じゃないな。というより、仕事自体は文字に携わる仕事だったので面白かったんですけれど、「なんかこれ一生する仕事じゃない気がする」「自分はあまり上に立つ人間じゃない気がする」とか、いろいろ考えまして、転職しようと思ったんですね。

で、まあ寄席にはチョイチョイ通ってまして、この中で働けたらなと・・・、(スクリーンの末広亭を振り返って)まさにここです。この中で働きたくなったんですね。末広亭の中で。で、どうやったら働けるかなと思いまして。
その時仕事でたまたま知り合いになりました噺家さんに相談したんですね。そしたらですね、演者、高座に上がる人はですね自分の出番の前後一時間しかいないよ、って言われたんですね。
でも私はずっといたかったんです。ずーっと。もう小屋に住みつくくらい居たかったんで、それはいやだって思ったんですね。だから演者は却下。
で、お茶子さんっていうのがいる。雑務をする人たちですね。もぎりとか、あと売店にいたりとか。で、そういう人たちいるよって言われたんですけれど、それもなんか・・・ずっと聞いてられるわけじゃないんですよね。仕事しなきゃいけないわけですから。あ、これも違うなとか思ってですね。
後、席亭(せきてい)がいるよって言われたんですね。席亭って言うのはここの経営者ですね。でここの家族に潜り込むっていう手もないじゃないですけれど、それも結構難関だなって思って。
で、私3歳から17歳までピアノを習っておりまして。まあ習わされてと言いますか、強制されてですね。「大学に受験するために塾に行きたいので辞めさせてください。」つって、親に泣きつきまして、やっと17で辞めさせていただいたんですけれども。
まあ一応素養があるわけですよ、音楽の。なので、「音楽の素養があるならお囃子さんでもやれば?」とか言われて、「お囃子さん、え?あれ生なんですか!?」「生だよ、知らなかったの?」「じゃあなります!」つってですね。
で、なる方法が分からなかったんです。なのでとりあえず末広亭に電話しようと思って電話したんです。「すいませんお囃子さんになりたいんですけど」って言ったら「うちでは分からないので国立劇場に電話かけてください」って言われまして、今度は国立劇場に電話をかけましたら、たまに募集をかけていると。その、養成コースでね。
いろんなコースがあるんですね。歌舞伎役者とか、文楽の人形遣い、三味線弾き、それから太夫といっぱいあるんです。その中に寄席囃子コースがありまして、「今年は募集かけてないけどそのうち募集かけるからホームページをときどき見にきてください。そのあいだ、あなたは三味線を弾けるようになってくれ」という風に言われたんですね。そうか、って思ってですね。
で、友達のおばちゃんが三味線のお稽古をしている方だったので、その人にお願いしまして25で三味線を習い始めたんです。「早く募集かかんないかな」とか思いながら過ごしてたんですね。
そしたら仕事が忙しくなってきちゃいまして、あっという間に4年経ってたんですね。で、4年後に「そう言えば転職考えてたよな」とか思っていて、何になろうかすっかり忘れてたんですね。この職業のことを。「管理栄養士かな、これからは」とか思っていまして、「高齢化社会だしな」とか、いろいろ思ってたんですけど。

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(笑)

「そう言えば明日三味線の稽古日だな。」と思って、「あれ?そういえばなんで三味線を習ってたんだっけな?」てなって「あ!これだ!」と思って、今度は国立劇場のホームページを見るわけですよ。そしたら二年前に募集が終わっていたんです。
で、「あ!一期逃した!」とか思ったんですけど、その後にまた募集が入ってたんですね。「うわ!これだっ!」と思ってすぐに願書をもらいに行って、その日のうちに会社に辞表届を出しまして、「すいません、辞めさしてください。」「いや、そんなすぐに辞められても困るんだけど。」「じゃあ、ぎりぎりのところで辞めさせてください。」で、その一ヶ月後の2001年の二月に会社を辞めまして。
で、4月に国立劇場の試験があったんですね。それに向けて2ヶ月集中稽古をしまして、試験に臨んだんです。受験者は20人でした。当時は今みたいに落語ブームのらの字もなくて、ものすごい寄席が閑散としていたんです。私が入ったころはほんとにお客さんがいなくて、「みんなどうやって食べてるんだろうな。」と思うくらいでしたから、寄席囃子コースに募集する人もほとんどいなかったんです。
20人受けた中の4人が受かりまして、何故かその中の1人に入れていただいたんです。
入った後になぜ選ばれたかわかったんですけど、他の三人は名取といってお師匠さんになれるレベルの実力の持ち主だったんです。言ってみれば学校の先生です。私のレベルは小学校1年生くらいです。それくらいの差があったんです。でも入れてくれたんですね。
思い返すと、試験には面接と実技があって、その面接の時に「なんで会社辞めちゃったの?」って言われたんです。「ああ、会社。何でですかねえ。気合いですかねえ」みたいな。

(笑)

「これ受からなかったらどうすんの?」とか言われて、「ああ、受からなかったら、また募集かかるまで待ちます」とか言ったら。「はー」って一瞥されたわけですね。多分、辞めちゃったから情けで入れてやろうくらいの気持ちだったと今にしてみれば思うんですね。

で、試用期間がありまして。二年間のうちの最初の6ヶ月がテスト期間なんです。4月に入りまして10月までだったんですけどものすごく大変なんですよ。ほんと、ここで授業の内容を話したら、私、鼻血が出ます。それくらい毎日大変な授業だったんです。それで10月にもう一回本テストみたいなものがあって、そこで振り落とされるんです。もしくは心が折れて自主的に辞めるかのどっちかなんですね。

研修所に入って最初に言われたのが、「あなた方は民主主義の生活をしていたけれども、この中は封建主義です。理解できないと思うけど、これに順応できなければこの世界で生きていけませんから」って最初にくぎ刺されました。
具体的に言いますと、先生が授業の時に来ます。「おはようございます」「ありがとうございました」「はい」「いいえ」もうこれだけでいい、って言われたんですよ。あとの言葉は一切言わなくていいって言われたんです。
これは、おおげさだと思うかもしれませんが、本当です。
で、「何か聞きたいことはあるか」って聞かれて初めて発言権が得られる。ただその発言内容もかなりの制約があります。これは言っちゃいけないんだろうな、って言うのを即座に判断しながら、失礼のないように言葉を選んでドキドキしながら聞かなきゃいけないんですよ。逆に「聞いていいよ」って言われ時に何も聞かなくても、それはそれでしくじるんですね。ものすごい難しいんですよ。「そういう社会に順応できないと思った時点で、自主的に辞めてください。」って言われました。
でも、私はこの中で働きたかったので、我慢というか頑張るって思って、ものすごい頑張りました。
そういうところで2年間過ごしまして、最終的に残ったのは2人でしたね。私ともう一人。私は落語協会というところに所属しているんですけれど、もう一人の同期は落語芸術協会というところに所属しています。

寄席囃子はですね、全体で、東京が30人弱。落語協会に14人いまして、それから落語芸術協会に9人だったと思います。他に円楽流と立川流で活動されている方が3,4人いらっしゃったと思います。上方のほうは、確か20人から30人くらい、東京と同じくらいの数の方が活動されていたと思います。

で、それぞれの5つの小屋がありまして、それをローテーションで回るんです。上席、中席、下席と分かれておりまして、今日は17日、17日は中席ですね。中旬だから中席なんですけれど。中席の10日間はこの小屋に行ってください。下席の10日間はこの小屋に行ってください。というような指示を落語協会から受けて私達はそこに行くわけです。
そのほかに、今は落語ブームでとても落語会が多いんですね。夜は夜でホール落語と言って、紀伊国屋ホール等の仕事に行くわけです。だから結構働きづめなんですね。寄席は365日休みなく稼働していますので、私達も休みなく稼働するわけです。
こう言うと「食べていけてんの?」と思いません?月給制度ではなく日雇いなんですね。落語協会に所属はしているんですけれど、会なので社員ではないんですね。日給制なんです。だから私は今日寄席に行ってないのでそのお金はもらえません。今日はこの後、国立演芸場というところで会があるので、そこのお金はいただけるんですね。福利厚生とか全くございません。健康診断とかもないんですね。だからもう、若い人でもバタバタ死にます。

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(笑)

本当に、洒落じゃなく死んじゃいますね。年齢じゃないなあってつくづぐ思いますね。
医者にしょっちゅう通う神経質な噺家さんも結構いて、そういう人は「…薬飲むの大変でさ。」とか言ってるわりには元気なんですね。
で、気にしてない人の方がやっぱり倒れるんですよ。すぐに逝っちゃいますね。「二ヶ月前はあんなに元気だったのに、もう葬式だよ」なんて。本当なんですよ。やっぱり福利厚生ってとても大事ですね。

私7年間務めてまして、その後こっちに来たんですけど、ほとんどの周りの人に反対されてました。「そんな水もの稼業なんて」って。
私が辞めたころは今ほど日本経済が悪化してなくて、会社も安定していました。不況とはいわれていましたけれど安定していたんですね。よく言われるのが「寄席が流行る時は社会が不況の時だ」っていうんですね。だから日本経済と寄席の入りっていうのは反比例するらしいんですね。地方興行とかも、それまでは演歌歌手とかバンドとかを呼んで盛り上げていたのが、座布団一枚で来てくれる噺家に変わるんです。予算なんか全然いらないんですよ。座布団一枚ですもん。
だから噺家が売れるようになると日本経済は悪化しているっていう。

そんなこんなで私8年目でございます。この仕事をしておりまして。
タイトルの方に「よせばやし子の一日」と書いてあるんですけれど、なんで「子」がついているのかといいますと、「ひよっこ」だからです。私の上にはまだまだお姉さん方がたくさんいらっしゃるわけです。私なんかものすごいひよっこなんです。やっぱり脂が乗り切ると言いますか、どんなことにも順応できるような、即戦力が求められるわけです。予定調和で進むものではないので、いきなりいろんなボールが来るわけです。それを逐一受け止めて即座に対応できるうまでには大変な時間がかかるわけです。ですので、普通のサラリーマンであれば30,40くらいが働き盛りのところが、私達の世界はたぶん50,60代が一番働き盛りなんだろうなと思います。まだまだ道のりが長いんですけれど、頑張りたいと思います。

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このくらいで大丈夫ですか?よろしいでしょうかね。もうすぐ2時じゃないですか?

まだまだ時間大丈夫です

じゃあせっかくなので本当に弾けるのかってことでリクエストを取りたいと思います。
好きな噺家さんがいらっしゃいましたらその方の曲を即座に弾いてご覧にいれましょう。
誰かありますか?

木久扇(きくおう)さん

木久扇さん。ラーメンの。木久扇師匠。「宮さん宮さん」という曲なんですね。日本で一番初めに作られた軍歌といわれております。

演奏

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他に誰かいらっしゃいますか?

古い人で、小さん師匠

え、まさか四代目とかじゃないですよね。五代目。2002年に亡くなられてる「朝げ昼げ夕げ」の方でよろしいでしょうか。柳家小さん師匠ですね。小さん師匠はですね、「序の舞」というとても格式の高い曲をお使いになっておりました。

演奏

どうもありがとうございます。

拍手

他にどなたがいらっしゃいますか?

ストトン節

「ストトン節」は金原亭 小駒(きんげんてい ここま)さんという方が使ってますね。

演奏

はい、どうもありがとうございました。

拍手

金原亭 小駒さんもですね。私と同じ日本大学で経済学部を…あれ?出たのかな?

(笑)

いや、あのね、噺家さん出てない人多いので、とりあえず経済学部入学しましたって言っておきますね。

他にどなたかいらっしゃいますか?

歌丸さん

歌丸師匠はですね、横浜出身の方なので「大漁節」という曲を使ってます。

演奏

はい、どうもありがとうございます。

拍手

こんな感じで私毎日過ごしております。

では最後に、寄席といえばこの曲。「かっぽれ」という踊りがございます。
大体噺家さんこの踊りを踊る方が多いです。もし寄席でご覧になった時には一緒に歌ってください。踊ってあげても結構です。手拍子なんぞを入れていただけるとありがたいと思います。
これを弾かせていただきまして、おあと懇親会に移りたいと思います。
それでは!

演奏

はい、どうもありがとうございました。
みなさんお健やかにお過ごしください。
どうもありがとうございました。

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恩田えりさんのプロフィール

  • 豊多摩高校42期
  • 大学卒業後、7年間会社勤務
  • 国立劇場伝統芸能伝承者養成機関 (寄席囃子コース)入学・卒業
  • 2003年に落語協会に入会
  • 現在、都内5カ所の寄席を中心に活動中

恩田さんはブログを書いていらっしゃいます。出演情報も掲載されています。是非お読み下さい。

恩田えりの「よせばやし子の一日」

同窓会総会について

豊多摩同窓会では毎秋に総会を開催しています。同窓会の現状や活動を会員の皆さんに直接報告したり意見を伺うことが目的です。

また、総会で最も力を入れている企画が講演です。講演者は同窓会の会員の方にお願いしています。今年はご覧の恩田えりさんに寄席囃子についてお話しして頂きました。語りだけではなく、会場からのリクエストで実際にお囃子を演奏もあり、とても聞き応えのある講演となりました。改めて、恩田さんにお礼申し上げます。

総会は参加者同士の懇親会で締めくくるのが恒例。その後はご友人同士で二次会に行かれる方も多いです。例年、有楽町で開催してきましたが、昨年と一昨年は豊多摩高校で開催しました。今年(2011年度)の総会の開催場所やプログラムは、只今検討中です。今年の総会に是非ご参加下さい。

過去の総会レポート

過去の総会の模様は以下からご覧下さい。なお、講演を豊多摩リンクス上に再現する試みは今回が初めてです。そのため、過去の記事では講演の概要のみお伝えしています。

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