南阿佐ヶ谷から歩いてみた

推奨ルート
推奨ルート
10月最終日曜日は恒例の同窓会総会。よし行くぞと、ネットで自宅からのルート検索をすると予想もしなかったルート、丸ノ内線南阿佐ヶ谷から歩けとのご信託がでました。バスで五日市営業所で降りるわけでも、井の頭線の浜田山から歩くのでもなくです。在校中も卒業後も一度たりとも使ったこともないルートです。おそるべしIT、このルートが合理的と言うんだね。杉並高校の脇を通り、善福寺川に沿って進めば良いということで、全く土地勘がないわけでもないので、おぼろげながら在学中に徘徊した記憶を頼りに進んでみることにしました。

都営住宅跡
都営住宅跡
南阿佐ヶ谷から住宅街に入り、若干方向感覚を失いつつ(道に迷った)進むと、目の前に大きな開発中の場所に出ました。ここはと、手元の地図を見ると都営住宅街あった場所。すこし小洒落た味のある集合住宅があった場所ではないですか。現在、再開発が始まり、給水塔を残し、かつてを偲ぶものはすでにありません。

すてきなすてきな杉並高校
すてきなすてきな杉並高校
少しおセンチな気分になりながら、進むと目の前は都立杉並高校です。手前のテニスのクレーコートがなんだか私立校みたいに豪華だと思いましたが、もしかすると全ての都立高校でクレーコートはすでに標準設備なんでしょうか。時代は平成ですから。

善福寺川公園
善福寺川公園
その先には善福寺川とそれに寄り添うように広がる公園群が広がっています。うぅーん、ここは変わっているのか、変わっていないのか、よくわかりません。ただ、川を覗くと水草がほとんどないのが気になりました。確か、昔は水草が茂り、大きなコイがのったりと泳いでいたような。(正直な話、下水道の整備がなされ河川改良を行った我が地元の石神井川のほうが自然の豊かさを感じられます。住宅街の中を進む流れには小魚が泳ぎ、それを狙ってカワセミやカワウがフツーにみれるのですから。この数十年ですごい変化ですよ、石神井川。)

すてきな公園
すてきな公園
緑とその木陰が多少深くなったかなとは思いますが、さして変化を実感できなかった善福寺川公園を進むと、お、小洒落た遊具のある森の中の公園が目の前に。森の中の公園!さすが杉並の高級住宅街!

昭和のあの広場!
昭和のあの広場!
と、その目の先にはなにやら見慣れた広場。そうここは放課後に草野球をやったあの広場じゃないですか。高級住宅街の公園の横には昭和のあの広場はまだあった。確かにここは自分たちのテリトリーだった場所だよ!なつかしい!

成田西いこい緑地?
成田西いこい緑地?
さて、ひとり感動をしましたが、20歩進んですぐに夢から覚めました。いこい緑地。公園に隣接していた旧家は、おそらく相続の過程で都なり杉並区に物納されたのでしょう。コジュケイが鳴いた農家の納屋を囲む深い木立は、犯罪抑制や害虫駆除を名目に下草をきれいに整理され、いこいとは程遠い雑木林でした。

自動車が多くて危なっかしい五日市街道
自動車が多くて危なっかしい五日市街道
そこから少し坂を進むと、かつての細く曲がりくねった五日市街道はもうそこにはなく、信号待ちして渡らなければ危なっかしい立派な国道が通っていました。

同窓生、恩師の著書紹介

booklog豊多摩リンクスでは、同窓生、恩師の著書をブクログというネットサービスを使って一覧にまとめています。同窓生は様々な分野で活躍していますから、理系文系、フィクション、ノンフィクション、様々なカテゴリーの著作物が80冊以上。もしかすると、同期の人が書いた本があるかも。

まだリストに入っていない本もあると思います。お気づきの時は豊多摩リンクススタッフまでお知らせください。

http://booklog.jp/users/toyotamabook

リンクス、どのくらいみられているの?

お気づきかもしれませんが、豊多摩リンクスは3月半ばにプチリニューアルをしました。直近の記事を見やすく、同窓生が探したい情報を見つけやすく、まだまだ不完全ですが、少しの改善をしました。

そんな豊多摩リンクスをどれだけの人がみてくれているのでしょうか。4月が終わったところで、ここまでの状況をご報告いたします。アクセス数グラフ

4月の閲覧数 2,932(一日あたり平均98)

上記は、ひとりの方が複数回、あるいは複数のページを見た場合もそれぞれにカウントした数字です。重複するアクセスを省くと訪問者数は一ヶ月で約500人でした。随時更新しているサイトなので、ひとりの方に気が向いたら何度もアクセスして頂きたいので、指標としては閲覧数を重視していきたいと思います。

日別アクセス数曜日別にアクセス数に違いがあるかなぁ、違いがあるならば更新する目標日を決めようかとも思いましたが、平日、休日でも大きな差がありません。学生から社会人、多様なスタイルのひとがいらっしゃるからなのでしょうか。

校名の由来と校歌が出来た経緯

豊多摩高校は昭和15年府立第13中学校として府立第1中学校(現日比谷高校)内に併設され発足、昭和17年現在の地に新校舎が落成し、誕生しました。昭和24年ナンバースクール制が廃止された折に校名を豊多摩と制定したのですが、明治時代に現在の杉並、中野、渋谷区の全域と新宿、世田谷区の一部が含まれる広大な地域を豊多摩郡と称していたことに因んで命名されました。 (豊多摩50年史より)

image昭和25年、創立10周年を迎えるに当たって、それまで校歌として認知された曲はなかったのでこの機会に校歌を作ろうとの機運が教職員、生徒、父兄の間で盛り上がり、作詞を言語学者の金田一京助氏に作曲を山田耕筰氏にお願いして出来上がりました。※校舎の写真は撮影年代不詳のものです。

創立10周年記念行事は10月12日から15日にかけ盛大に催され、校歌は初日の記念式典の席上、音楽部によって正式に披露されました。当初、新しい校歌は全学認知には程遠い有様でしたが、音楽教諭の稲生道男先生は校歌の普及に深い思い入れと、情熱、執念を抱いておられ、その後校内合唱コンクールを立ち上げ、課題曲の一つに校歌を歌うことを義務付け、昭和27年には第1回校内合唱コンクールが開催されました。以来、混声四部合唱で、叙情あふれる豊かな詩、難解ではある がしっとりとした美しい旋律を歌い上げ競い合うことが伝統となっています。(初演で指揮をされた高3期羽山忠良さんのお話から)

応援歌の誕生

創立15周年の翌年、昭和31年の新学期早々、学友会は応援歌を作ることを決議し、懸賞金を付けて在校生に呼びかけました。はじめ歌詞を募集し、その1席と2席に対して曲を募集しました。

1席に選ばれた歌詞「豊多摩の健児我等—–」とそれに付けて1席に選ばれた曲の作曲はともに当時2年生の石田幸久さんでした。石田さんは当時を振り返り、歌詞は国語の今坂晃先生の補作により出来上がったこと、曲は一晩で一気に書き上げたこと、頂いた賞金の額は忘れてしまったが、2年C組の同級生が喜んで祝福してくれ、そのお礼に運動具を買ってクラスに寄付した覚えがある、頂いた賞状の日付が昭和31年10月2日となっており、丁度50年という節目に忘れられた歌を皆さんに歌って頂けることはなによりもうれしい、と話して下さいました。

母校はどの競技でもインターハイで勝ち進むことが出来ず、折角の応援歌がまぼろしの存在になっていました。しかし、今年平成18年10月7日日比谷公会堂で開催される第14回東京校歌祭では豊多摩はトリを務める番になり、OB吹奏楽団をバックに校歌と共にこの応援歌を歌います。皆さんお誘い合わせの上お出掛け下さい。ご一緒に歌いましょう。

11期 山﨑彰

応援歌「豊多摩健児我等」

豊多摩にまつわるホント、逸話、うわさ話を硬軟とりまぜてお見せするコーナー「豊多摩なんでも堂」。みなさんからの情報もお待ちしております。

その昔、豊多摩に勇壮な応援歌があった。それは生徒自身が作詞作曲した応援歌。06年の東京校歌祭、吹奏楽部OB会の演奏で日比谷公会堂の舞台で蘇り、その後、母校でも数十年ぶりに復活。

作詞作曲をされた10期石田氏の了解を得ましたので、動画を再生頂ければ懐かしいメロディをお聴きいただけます。

※音声圧縮の関係で一部音声に歪みのある部分もございます。ご容赦ください。

11期 矢島

  • これを作った当時は、ホームページを通じて、応援歌が聴けるなんて想像もしませんでした。ご尽力頂いた皆様に感謝です。青春を取り戻すエネルギーとして活用していただければ、何よりも幸せです。(石田幸久)
  • いやあ、驚きました!昨日(2008.2.14)、石田さんにお会いして、母校の応援歌を作詞作曲した事などすっかり忘れていたのに、50年ぶりに思い出させて頂き感謝以外の何ものでもありませんでしたというお話をお聞きし、私も嬉しくなってしまい、早速、インターネットで調べた次第です。石田さん、今年は何か大変良いことが起きる前兆だと思いますよ。(ちなみに私は石田さんの単なるゴルフ、飲み友達です)(藤田訓弘)

豊多摩の校章

豊多摩にまつわるホント、逸話、うわさ話を硬軟とりまぜてお見せするコーナー「豊多摩なんでも堂」。みなさんからの情報もお待ちしております。

校章「豊多摩の校章は「山桜に旭日」をあしらったものです。校歌祭で日比谷高校OBが自校の校章を「明治x年に制定」と誇っていたのを聞いたことがありますが、豊多摩の校章はその組み合わせを逆にしたものです。なお、画像は昭和32年まであったとされる七宝焼き校章。豊多摩の校章は色つきでした!また、同窓会名簿をご覧ください。手書きで精緻に描かれた校章、OBで豊多摩教員だった原さんの作品です。(11期 矢島)

「校章」について、みなさんからもいろいろな情報を寄せていただきました。

  • この七宝の校章は男子は襟に、女子は胸に付ける徽章だったのです。遠くからも目立つので他の学校の連中からうらやましがられたものでした。しかし、昭和32年突然何の説明も無くこの徽章は廃止となり、男子の帽章と同じいぶし銀に金色の高の字のものに変えられたのでした。七宝の方は夜間部の徽章になるとか聞いたような気がしますが、はっきりしません。七宝の徽章がいつ頃、誰のデザインで制定されたのかお分かりの方はこの欄に投稿して頂きたいと思います。(山崎 彰)
  • 十三中が一中(日比谷)の敷地にあった関係でこのような経緯になったらしいと聞いたよ。(衛生兵)
  • 日比谷高校と逆のデザインで、日比谷は外が旭日で内が桜です。制服はありませんでしたが、1番便利な学生服を着ていました。下にパジャマを着ていてもわかりませんからね。(21期 青)
  • 襟章。ちなみに学級委員の級長は、茶色の七宝焼きで一般は空色でした。(高3期羽山)
  • 高6期です。不肖私は3年B組の級長に任命されました。その際、デザインは同じですが、青色のところがオレンジ色の校章をいただきました。これを制服の襟につけていると、ちょっと悪いことができない気がしたものです。(宮下 洋)
  • 今、思い出しましたが、同じデザインの、帽子につける「帽章」もあって、これは七宝ではありませんでした。「校章」「級長校章」「帽章」の3点セットを今でも大事に持っています。(宮下 洋)
  • 七宝焼きの徽章があったなんて羨ましいです。今の豊多摩は徽章どころか都立高校でも珍しく、標準服もありません。徽章や制服についてもご存知の方がいらっしゃいましたら是非教えてください!(55期 藤井)
  • 私が現役の頃はいぶし銀というか真鍮色のバッヂだったと思います。手元にはもうないのでどんな感じだったか思い出せませんが。ステキな校章、今欲しいくらいです。(36期嶋林)
  • 真ちゅう製のバッチ世代でした。先輩がバッチの台座部分を削ってZIPPOに貼り付けていたのが記憶にあります。印籠みたいに。なんで高校生がライター持ち歩くかというと・・・(以下省略)(36期 高橋)

みなさんからの情報もお待ちしております!

関連記事:毎日新聞都内版に豊多摩高校記事<続>